安藤 紘平(映画監督)
繊細で独創的な表現力で知られる映像作家。作風は一貫して“時の移り変わり”を描いた新鮮な作品が多い。故寺山修司との欧州旅行で16ミリカメラを入手し、短編映画を撮り始める。パリ、ニューヨーク、ロンドン、東京などの美術館に作品が収蔵される。他にCM 作品など多数。1996 年3月には、タンペール国際短編映画祭で寺山修司、手塚治虫らと共に特集が組まれる。ハイヴィジョンを使っての作品制作では、世界的な先駆者で、前記作品以降、多数の作品で国際的な賞を受賞、フランス国際映画祭の審査委員長など多数の映画祭の審査委員を歴任。2001年、文化庁特別芸術家派遣員。2001年11月には、パリにて安藤紘平回顧展が開催される。日本映画監督協会理事、国際委員会委員長。

純吉(以下、純):今日は安藤さん、宜しくお願い致します。
安藤さん(以下、安):宜しくお願いしますね。

純:では、まずはやっぱり映画監督になろうと思ったキッカケを
  教えてもらってもいいですか?
安:僕はね、そんなこう、映画監督になるんだぁって始めたわけじゃないんだよね。
  映画監督なんてそんな奴多いよね。
  映画が好きなのはみんなベーシックにあるわけだけど・・・。
  僕の場合もっといい加減なんだ。元々、大学は早稲田の理工学部。
  本当は文学をやりたかったんだけど父に反対されてね。
  兄が音楽やっていた影響で僕はバイブをやっていて、大学に入ると即戦力で
  クラブ活動のハワイアンクラブに入れられたんだ。
  僕は本当はジャズが好きだったんだけどね。
  そのナレオハワイアンズで九条映子さん
  (故寺山修司さんの奥様で、もと松竹の女優)の弟さんと出会ったんだよ。
純:それが運命の始まりですね。
安:うん、そうかもしれない。ちょうどその頃、詩人で劇作家の寺山さんが立ち上げた
  劇団「天井桟敷」の「青森県のせむし男」という舞台が大ブレークしてて、
  その第二弾「大山でぶ子の犯罪」の音楽を頼まれたのがキッカケだったんだよね。
  面白い事をやってるなあって、すごく才能のある人がいると感じてたから。
  ご飯食べたり話している内にいつのまにかその「天井桟敷」に入れられちゃってね、
  初めはお芝居やってたんだよ。
純:えっ!?安藤さんが芝居をですか?

安:そう、初めはお芝居の演出助手や制作とかスタッフをやっていて、
  中でも僕はネクタイ締めたりする事ができたからね、
  国のお金をもらいに行ったり、タイアップしたりとかね。
  そして、よく寺山さんの使いで行っていたTBSに就職したんだよ。
純:それでTBSだったんですね。
安:そう、でもまだ試用期間中なのに海外公演で何ヶ月も休んじゃってね。怒られた・・・
純:いきなり海外ですね。寺山さんの舞台演出ってどんなカンジなんでしょう?
安:寺山さんの考えには、役者が芝居の中でいろいろな人を演じる事も、
  普段生きている現実の社会での人生も、実はみんな虚構、
  芝居しているというのが根底にあって、舞台の上と観客と実際の街中とを
  繋げる芝居が多いんだ。
  街じゅうが舞台だからって、同時多発的に街の中で芝居やったりね。
純:へー、新鮮です。面白いですね。
安:その公演は「毛皮のマリー」というキチっとした芝居なのに、舞台が3つに
  区切られていて、真ん中に舞台と左右に衣裳部屋があって、
  衣裳部屋部分にいる時は普段の自分に戻っちゃうという設定でそこだけは
  ほとんどアドリブなんだけど、仕切りを越えて舞台部分に行くとまた
  決められた芝居、台詞になる。でも、実はアドリブ部分も虚構の世界で
  芝居をしてるんだよ、いや、現実の生活だって虚構さってこと。
  だから最終的には、突然、ある種、役に入ってしまって、客席を抜けて
  現実の街中に素っ裸で出て行ってしまうんだよ。それも全裸でだよ。
純:あはははは!…あ、すみません。
安:当時、全裸でなんて考えられなかった時代でね、
  芝居という事でOKだったんだけど。翌日のフランクフルトの新聞の一面に
  僕の全裸の写真が出てしまってね、大変だったよ(笑)。
純:それがどうして映画監督になるんですか?
安:その海外公演の航空運賃のタイアップ映像を、パリで撮ることになっていてね。
  その当時は、パリのカメラマンが組合を組んでいて、フィルムカメラマンを
  雇うのがすごく高かったんだよ。でも、さすがパリは映画の街だったね。
  古い中古の16ミリのカメラがすごく安く売っていたんだ。
  そしたら、寺山さんが突然言い出すんだ。
  「これからは映画の時代だぞっ。俺と二人で半分ずつ出し合ってカメラ買って、
  日本に帰ったら一緒に映画を撮ろう」って、すごく魅力的な話でしょ。
  「ついでに高いカメラマン雇わずにお前回せ」ってさ。
純:ええっ!? 
安:ずいぶん無謀な話だよね、フィルムカメラなんて触った事もないのに。
  店員さんに聞きながら、それで撮ったんだよ。
純:アツイですね、僕もそういう時代に生きてみたかったな。
  それで日本に帰って、一緒に映画を作るんですか?
安:それがね、日本帰って来たら寺山さん全くその話に触れなくてね、それでしょうがなく自分達で撮ろうかって、萩原朔美君なんかとやり始めたのが最初なんだよ。
純:ははぁーっ、スケールが違い過ぎますよ。
  そんなに刺激的な始まりだったんですね。
  日本の著名な監督方のパワーの源を垣間見た気がしました。

純:そういえば安藤さんの作品には画家の名前が良く出てくるんですが、
  絵からのインスパイアというか、触発されるモノってあるんですか?
安:僕は子どもの頃美術の時間、先生に不条理に叱られた事があって絵を描くことを
  止めちゃったんだけど、でも好きなんだね。
  必ず外国に行った時は美術館に行くし、絵画から受ける影響は大きいな。
  絵って一瞬のフレームの切り取りなんだよね。
  フェルメールというオランダの画家がいて、30数点とすごく作品数も
  少ないんだけど、すごく魅力のある画家でね、
  「フェルメールの囁き」という映画を撮ったんだ。
  僕の作品は妄想の塊なのかもしれないな。嘘が本当で、本当が嘘。
  何が本当で何が嘘なのかってすごく分かりにくい。
  リアルと言われる現実も、おおかた虚構なワケで。
  リアルって真実とは違うし、そういうものって受け取る側の人間によっても
  違うんだよね。戦争の受け取り方とか、正しいとか悪いとか・・・。
  誰がそれを決められるんだろう・・・。
  嘘っていうのは或る意味で悪い事ってされてきたけども、
  その嘘という物の中に実は真実や愛すべきことが隠されているのかも
  しれないなあってね。
純:うん、なるほど。
安:今こうやって君は今日僕に会う為にその服を着て来ていて、
  僕もそうしてるのだけれども、君が来るからって、僕はこの服を着ることで
  何かを演じているんだよね。もしかしたら自分の何かを隠しながら
  「私はこういうイメージですよ」って作りものを見せようとしてるのかもしれない。
  もし本当に気持ちそのままに素直に生きようとすると、
  もしかしたら法秩序や道徳から逸れた事をしてしまうかもしれない。
  子どもの頃から僕等が教えられた教育が正しいかどうかも
  実際分からないんだよね。
  それは一夫一妻とか多妻にしてもそのバックにある宗教とかもそうで、
   秩序として守る為に人間はルールを作って来た。
  そのルールの中で僕らは教育されてきた。
  人を殺すのはいけないという事は知っている。
  けれどもその後どうするかはある意味自分の自由なワケだ。
  その自由の中で人を殺すのか殺さないのか、
  その考えのどこまでがちゃんとした自分の判断で、
  どこまでが社会の秩序の中で押し込められているモノなのか。
  そういったものを全部ひっくるめてどこまでが嘘か真か。
  そんなシェークスピアの時代からのテーマであるフィクションと
  リアルの世界を、寺山さんは語っている気がするんだよね。
純:うん、うん。

 安:単純に映画一つ撮るのにも、フィクションでやった方が真実が伝えられるのか、
   ドキュメンタリーでやる方が伝えられるのか、ドキュメンタリーといっても
   結局は僕の見方で切り取っていて、僕の意見をそこに散りばめながら伝えていく
   ワケだよね。
   フィクションは逆に、これは実在しなかった世界で、
   実在しない人々の話なんですよって逃げながら、見る側を油断させておいて、
   その中に実は伝えたい何かを押し込めているわけだ。
   それはもしかしたら、例えばテロをテーマにしたとして、
   911のテロの事を取材しながらやっていくドキュメンタリーと、
   何かそうじゃない虚構のフィクションの中で語っていく事と
   どっちが強く相手に伝わるだろうかっていう論議なんだよ。
   寺山さんは圧倒的に後者だったんだよね。
   作り物です。嘘です。死者が蘇ったり、少年時代の自分にめぐり合ったり、
   こんな幻想的なことはみんなどうせ嘘だから、イマジネーションの中で
   楽しもうって。でも、観念的には、とてもリアルなんだね。
   ふと、死んだ父が枕元へ現われたり、いつも自分探しをしていたり・・・。
   そんなことって日常であるでしょ。それが、心を開放しながらいる中に
   ポーンって入ってくるからすごく伝わりやすい。
   「これは本当の事だよ」ってすごくリアルに表現しようと思えば思うほど
   作り物に思えてくるいやらしさってあるよね。
   それと比べると、現実にない、ありえないと思われる事自体が
   実は本当にそういうものが後ろに隠れているという事に気付かされる時がある。
   それが寺山さんの武器だと思うね。
   僕が妄想的だというのは、生来嘘つきだったのかもしれないのが一つあり、
   もう一つはきっと寺山さんの影響だよね。
   「本当はこうだったに違いない、実際は違っても本質はこうだったに違いない」と
   信じて語っていく事が、本質を語る、あるいは、表現することかなあって思うよ。
   僕が撮ったアンリ・ロートレックの話にしても、安藤さんはまるで本人を
   見てきたかのように嘘をつくってよく言われるんだけど、
   最後はきっとこう思っていたに違いないと信じる事が僕には大事なんだね。
 純:こんなにも映画という物は可能性を持っていて、
   それを形にすることの出来るツールなんですね。
   作品に意志を込められるのですね。なんか見方が変わりそうです。

 純:では実際に影響を受けた作品とかありますか?好きな物とか?
 安:好きな物ならいっぱい、あるよ。映画ならタルコフスキー監督の
   「惑星ソラリス」とか。ソラリスという惑星と人間とのコミュニケーションの
   話なんだけど、人間の想い、記憶、みたいなものが具現化されてその風景が
   惑星の上に出現するなんて事は本当にゾクゾクするんだ
   あとは、トリュフォーの「華氏451」ビスコンティーの「家族の肖像」とかね。
   でも影響を受けたといえば、やっぱり寺山さんだろうね。
   その手法とかイメージ、形が寺山さんにすごく影響されていたね。いやでも・・・。

 純:寺山さんて本当に偉大な方なんですね。
   安藤さんの寺山さんへの想いもすごく伝わってきました。
   そうやって作られる映画の理想ってありますかね?
 安:映画って解決させるのはいつも見てる人なんだよね。
   結論めいた物は空白にしておいて、見てる側が自分の持ち物と照らし合わせて
   埋められたらいいなと思うんだ。
   結局感動するって自分の何かと重ね合わせて主人公に身を近づけ、
   置き換えながら涙を流すんだよね。
   見る側はどこかに失った何かと対峙しながら泣いている。
   その時点でもう既に作家の物じゃなくなるんだよね。
   映画は観る人が完成させないとダメなんじゃないかと思うんだよね。
   作家に完成させられて、どうだって見せられても本当はいけないと思うんだよね。
   完成度の高い映画であればあるほど、ある種の空白というかイマジネーションを
   湧かせる部分がいっぱいあるよね。
 純:はい。はい、すごく良く分かります。
   テレビって付けっ放しで日常当たり前に流れている物で、
   目に飛び込んで来る物が多いじゃないですか。
   映画って自分でわざわざ足を運んで自分で選んだり、
   借りに行ったりして観に行く物だから、
   押し付けられるよりは自分で感じて何か持ち帰れるといいですよね。
 安:そうだね。
   映画の事ではない事ででも、うまく持ち帰ってもらえるといいね。
   いい意味でその人に影響を与えられるようなね。

純:テレビと映画の違いって、あるならそれは何なんでしょうか?
安:うん、僕が思うのはね、両方あっていいものだと思うんだよね。
  テレビは日用品みたいな感じがして、それって必要なのかもしれない。
  僕はあんまり好きじゃなかったんだけどね。
  世界中の文化を汚しているのがテレビだと言われてるように、
  それはバラエティー、ドラマに関わらず、酷いよなと思うものも多かった。
  でもそればかりも言えないなって思う。
  つまり選挙と同じで、とんでもなく日本の国会議員はレヴェルが低いって
  言う意見があって僕もそう思うワケ。
  特に今回なんかもそうで、でもそれは選んでいる人のレヴェルも低いんだよね。
  それは映画もテレビも一緒でね、テレビの方がその傾向が如実なんだよね。
  つまり、そっちの傾向にいくのが早い。
  映画3本観ると、あるいはその国のテレビを観ると、
  だいたいその国の文化が分かるって言うよね。確かにそうだと思う。
  その国の人達がどこまで真剣に自分達の価値観を大事にしてるか、
  国自身がその表現に対して自由かどうかとか、言論を弾圧されてるなあとか、
  貧乏だけれど生活感がハッキリしてたりとか、民族とかの誇りを感じさせたりが
  見えてくるんだよね。映画を3本も観ると・・・。
  おそらくテレビなんかは、それが映画ほどに作品自体の大きさとか重さとかを
  考えないで作ってしまう消費材、日用品のような物だから、
  よりその傾向が強くなると思うんだよね。
  文化的な国にあっても、レヴェル的に低い部分を強調する可能性はあると思う。
  それにしても日本は仕組みの問題もあると思うんだ。
  スポンサーが付くでしょ、ある程度の視聴率がどうしてもね、
  これは追いかけっこになってくる。
  おそらくテレビ局は、観る人をバカにし過ぎていて、実は観る人はそれほど
  バカじゃないんだけど、難しい事をしても分からないという偏見を持っていると
  思う。こう言っていいかどうかは分からないけど、ある種の質の高い映画って
  言うのは、いろいろなところに隠し味や仕掛けが散りばめられていて、
  そうなると観る側の知識も要求されてくるワケさ。
  言ってみれば、作り手と見る側のせめぎ合いがあるわけ。
  象徴的な表現、言葉の難しさ、詩、音楽、絵画の意味が分からなければ
  理解できなかったりもするんだよね。
  僕自身、後から聞いて更に深く分かった事もあったりするしね。
  例えばヨーロッパでは蜜蜂が飛んで来るというのはナポレオンが
  押し寄せてくるという意味があったり・・・、これは日本人じゃ分からないよね。
  それをどんなにテレビでやったって何も通じないって事があるわけだ。
  名作といわれる作品にはそういう手法がよく使われているんだよね。
  全てが分からないとしたら演出家としてはあんまり良くないけども、
  それが分からなくても楽しめたりする形があって、
  加えて何度も観て解き明かせる映画って言うのがいいと思うんだよね。
  その空白のイメージを見る側が自分で補って埋められるような映画が理想だね。

 純:今は誰でも市販で売られているカメラで、
   誰でも映画が作れるようになりましたよね。それについてはどうでしょうか?
 安:僕はいいと思うよね。
   でも、すごく簡単にできるから苦労をしなくなってきちゃってるよね。
   本質的にはその人その人の持っている伝えたい事柄を大事にしていく事が
   大切だから、誰でも映画が簡単に作れる環境は良いことだと思う。
   しなくていい苦労はしなくていい。でも、やっぱり必要な苦労はいろいろな意味で
   しなければいけないし、発信する人間が全ての人に伝えられる力を持たなくては
   いけない。簡単に撮れるから自分が高まらないのにどんどん撮ってしまって、
   それが何かの賞をもらってしまうとロクな作品が作れなくなってしまう。
   CGなんかがいいと映像に頼ってしまうんだよね。
   本当はカメラがいいのに、なんて事にもなってしまう。たまたま撮れてしまった
   美しい風景ではなく、撮ろうとして撮った美しさにこそ価値があるんだよね。
   見る側と演出する側はかくれんぼの遊びなんだと思う。
   演出家は、作品の中に隠れていて、観客に隠れている自分を見つけてもらう
   遊びなんだ。苦労して苦労して見つけてもらうのが良くて、あんまり簡単に
   見つけられてもいけないし、難しすぎて見つけられないのも、
    難解な自己満足作品になりかねない。
   ところで必要な苦労といえば、昔はいろいろな工夫があった。
    雨一つ降らせるにも、松竹ならしとしとと雨の筋が見えるか見えないかくらいの
   やわらかい雨。東宝の黒澤明さんなんかはダーっと水溜りでパンパン弾ける雨。
   あれは雨に砂糖を混ぜてるんだよね。
   雹なら氷砂糖を降らせるのがぴったりなんだ。 
   それなんかをCGでやればいいやってなっちゃうと、どうなんだろうね。
   本当に降った時にどうなるのかという工夫がなくなってしまうよね。
   だって本当に相手をしているのは、生身の演者なワケだからね。
   同じ役をやってもらうのに監督は悩むわけだよね、
   沢村君にやってもらおうか、役所浩二さんにやってもらおうか、
   山崎努さんにやってもらおうかってね。
 純:いやいや、例えがおかしいですよ!
 安:あはは、それがね、誰に決まるのかっていうと、この人だったら、
   例えば坂本竜馬なら、坂本竜馬を演じさせてるワケではないんだよね、
   坂本竜馬を演じる沢村君がいて、山崎さんがいるんだよね。
   沢村君の中にある坂本竜馬を見たいわけだよ。
   だからコンピューターで計算された演出、それはとっても怖いものだよね。
   作る側も演じる人も、観る人もみんな人間だからさ。
   怒っている優しさもあり、笑っている優しさもある、
    演者によって表現はそれぞれ違うだろうし、それが個性にもなる。
   みんな違う形の中から実は誤解も含めて広がりになって、
   思い違いで泣いたり笑ったりして、それがきっといいんだよね。
   それをうまく共有できるような環境なんてものは人間じゃなきゃ無理だよね。
   両方上手く補っていければ最高なんだけどね。


 純:最近、原作物が多いですよね。
   漫画、小説の映画化みたいな。オリジナルは減ってきたなあって思うんですけど。
 安:どっちもいいと思うけどね。脚本の力だよね。
   原作というのはとっても練られているし、何億冊もある中からある何百万部も
   売れた本を選ぶわけだから、原則面白いよね。でも、脚本にしても面白いと
   思うものもあるけど、逆に映像化するとダメになってしまうものもあるね。
   それでもそこそこ売れてしまったりもする。原作の力かな。
   ところが、オリジナルでやるとリスクがある。
   時間もとても掛かるし、それに小さい規模、1〜2億くらいの制作費なら
   いいけれど、大手が絡むと大変なんだよね。
   原作があるとやる方も安心だしね。それが原因じゃない?
   でも、やはりオリジナルの素晴らしい作品を見るのは嬉しいね。 

 純:では最後に、映画ってなんなんでしょうか?
 安:映画で語るという事は半ば発明する事だよ。
   小津さんも黒澤さんもスピルバーグもみんな発明してきた。
   若い人には、これからもどんどん新しい発明をしてもらいたいと思うね。
   楽しみにしているよ。
 
 純:今日は長い時間、ありがとうございました。
   とっても勉強になりました。
 安:こちらこそ、楽しかったよ。また来てね。
 純:はい!


今回のインタビュー&撮影は更に緊張しました。普段お世話になっているのですが、なかなか会う事は出来ない方なので実際嬉しかったです。インタビューも本当に良かった。次から次へ出てくるお名前が巨匠の方ばかりで、もったいないけれどカットしてしまった部分もいっぱいあります。普段聞けない裏話なんかもあって、これはマズイ!とか。今回、僕は100%伝える事は多分出来ていないと思います。3時間半の容量ですから絶対無理なんですけれど。でもその場にいた僕はすごく貴重な時間で、いろんなものを感じました。少しでもそれが皆さんに伝わればいいなと思っています。

今回、奥様の手料理をご馳走になったのですが、これが本当に美味しい。日本離れしたディナーでした。素晴らしかった、本当は僕が歓迎しなければいけないのに、ありがとうございます。スチールはカメラマンと話し合った結果、安藤さんのお庭で撮影する事になりました。庭にある壁画は奥様が自身のご趣味で描かれた物だそうです。なんとも僕のそれとは、かけ離れた空間でしたね。スチールイメージは父と子。この距離感が出ればいいなって。

安藤さんご協力、本当にありがとうございました。それにしてもこの企画、本当に大変だ。ライターの人って本当にすごいんだなと思いました。今後もしかしたらスタッフを増やそうかな…いや、やれるとこまでやろう。自分が聞いた感動を自分で伝えよう!自分の文才を恨みつつ、そう明日に向かって吼える僕でした。